またまた「番外編」、しかもかなりSMから逸脱した番外編となってしまった。

「映画における緊縛指導 ~番外編3~ 深井俊彦」 では、ストリップ初期 (1947年(昭和22年)から1955年(昭和30年)頃)に演出家として活躍した深井俊彦 氏を、須磨利之 氏、濡木痴夢男 氏、たこ八郎 氏、そして「ピンク実演」と関連づけながら紹介した。

この時、戦後の「一番最初」のストリップをどこに求めることができるのか、個人的な興味からあれこれ調べてみた。ストリップに関しては、ネット上に多くの情報が存在し、書籍も数多く手に入る。したがって、比較的簡単に「一番最初」のストリップを知ることができるだろうと思ったが、これが意外と情報が混乱している。

既に「深井俊彦」篇で紹介したように、戦後最初のストリップは、一般的には1947年(昭和22年)の春、「帝都座 」でおこなわれた『額縁ショウ』だとされている。そして、前後して、福岡、大阪、千葉などで同時多発的に、芝居やダンスショーの中で、チラリと乳房をみせたという記録が散在する。全国ほぼ同時に、女性の裸体を鑑賞する娯楽が発生していたのであろう。もっともなことである。

ところが、その同時多発的におこった裸体鑑賞娯楽の象徴ともいえる「帝都座 」の『額縁ショウ』に関して、随分と情報が錯綜していた。1947年(昭和22年)1月1日説もあれば、1月15日説もあり、2月説もある。裸を見せたモデルも「中村笑子」「中村恵美子」「甲斐美輪」「甲斐美和」「甲斐一」などなど。果ては、『肉体の門』の中で額縁ショーがおこなわれていたといった誤った情報もある。持ち前の調査魂から、この『額縁ショウ』を少し詳しく調べはじめた。

ある情報源では『額縁ショウ』の演出が『丸木砂土』とある。奇譚クラブのペンネームにでもありそうな名前だが、この丸木砂土で調べてみると、出てきたのが意外な大物、秦豊吉氏である。さらに調べて行く中で出会ったのが、『季刊 the 座』第22号の『特集:ヴィーナスの誕生』(こまつ座, 1992)。この17ページにわたる特集では、秦豊吉が仕掛けた『額縁ショウ』に関する非常に丁寧な考証がなされている。「映画における緊縛指導」、今回はこの『季刊 the 座』の情報を核として、番外編として「秦豊吉 」氏を紹介する。

秦豊吉 氏は1892年(明治25年)生まれ。伊藤晴雨 よりは10歳若いが、高橋鐵 氏や名和弓雄 氏といった、昭和SMの源泉に関わった人達よりもさらに古い世代に属する。ネット情報によると、われわれが社会の教科書で習った「秦氏」の家系であるらしい。「秦氏」といえば、能や歌舞伎といった演劇芸能の生み出したとされる家系で、秦豊吉氏も「7世松本幸四郎の甥にあたる」とある。「芸」の世界と関連の深い血筋をもっているわけだ。

なかなかのインテリのようで、東京帝大ドイツ文学科に在学中に、ゲーテの『若きエルテルの悲しみ』を翻訳出版している。東大卒業後は、三菱合資会社(後の三菱商事)に入社し、1919年(大正7年)には、ベルリン支店開設のためにベルリンに派遣される。1919年といえば、ちょうどドイツが第一次世界大戦に敗戦した年にあたる。よくまあこういう大変な時期に、三菱商事も支店を作ろうと考えるものだと感心するが、ともかく秦はベルリンで、敗戦から復興するドイツ文化を目のあたりにすることになる。この時の経験が、戦後の秦豊吉氏の文化活動に大きく影響を与える。秦はこのベルリン滞在時にも、現地から「新潮」「文藝春秋」などに、映画・演劇に関する論評・考察を頻繁に投稿したようだ。既に山本有三、菊池寛、谷崎潤一郎ら文壇との交流もあり、また1921年(大正10年)の『カリガリ博士』(ローベルト・ヴィーネ監督, 1920)の日本上映に一役かっていたり、1925年(大正14年)には新劇の常設劇場である「築地小劇場」の客員となるなど、文学・映画・演劇などの広い分野で活動している。

1926年(昭和元年)、7年あまりのベルリン勤務が終わり帰国する。引き続き三菱商事に勤務するが、文筆家として生きていくことにもかなり興味をもっていたようだ。1929年(昭和4年)に翻訳したレマルクの『西部戦線異状なし』が大ヒットし、また自らも「丸木砂土」の筆名で執筆活動を続ける。「丸木砂土」はおわかりのように「マルキ・ド・サド」をもじった筆名で、変態文学にかなりの興味をもっていたことが分かる。三菱商事時代の1930年(昭和5年)には丸木砂土の筆名で『世界艶笑芸術 性科学全集第6篇』を出版している。ネット情報などでは「マルキ・ド・サドをわが国に紹介した人物」の一人として秦豊吉の名前があがっている。だが、どの作品が、この「マルキ・ド・サドの紹介」に相当するのかは調べきれなかった。

菊地寛と秦豊吉は、第一高等学枚時代の同級生であったようだ。菊地は戦前に「文藝春秋社」を設立したことでも有名だ。少し話はそれるが、この戦前の「文藝春秋社」は、「SMセレクト」の「三世社 」とも少なからぬつながりがあるので面白い。いずれ紹介してみたい。

『文藝春秋』の対談で、秦は菊地から「小林一三」を紹介される。この小林一三との出会いが、秦の人生を大きく変える。

「小林一三」は1873年(明治6年)生まれ。いろいろな方面で歴史に残る仕事をしている。深井俊彦の記事で紹介したように、『日本で最初のレヴューは1927年(昭和2年)の宝塚少女歌劇団による「モンパリ」である』。この仕掛け人も小林一三である。宝塚歌劇団の創始者であり、阪急電鉄・阪急百貨店のオーナーでもある。晩年には現在の「東宝」の社長でもあった。鉄道、物流、娯楽がリンクした多角経営を関西で成功させた小林一三は、次のターゲットを東京の有楽町に定める。既に浅草は松竹の支配下にあったため、有楽町に新しい娯楽のメッカ、「東京宝塚劇場」を建設しようと計画していた。その斬り込み隊長として秦豊吉に白羽の矢をたてたわけだ。この小林の誘いに応え、秦は三菱商事を退社し、総支配人として東京宝塚劇場の開設準備にあたる。

1934年(昭和9年)1月、有楽町に秦豊吉が率いる、「東京宝塚劇場」が完成する。まだ戦前の話だ。秦は続いて、日劇ダンシングチーム(NDT) の開設準備に取りかかる。この時集められたスタッフ、佐谷功、益田隆、ダンサーの中村笑子が、1947年(昭和22年)の『額縁ショー』の制作の中心人物となる。日劇ダンシングチームは1936年(昭和11年)にスタートし、浅草レビューとは違った、宝塚レビューが東京に根をおろす。

東京攻勢をしかける小林一三は1938年(昭和13年)に後楽園スタヂアムを買収する。後楽園球場だ。秦はこの後楽園スタヂアムの専務取締も勤め、戦中、戦後は会長となっている。

戦争が次第に本格化する1940年(昭和15年)、秦は有楽町の東京宝塚劇場、第3代社長となる。同時に、戦後『額縁ショー』がおこなわれた新宿の『帝都座』と支配下におさめることになる。

ここで『帝都座 』について少し紹介しておこう。東京にお住まいの方はイメージしやすいが、『帝都座』は今の新宿丸井本店のある場所にあった娯楽施設である。1931年(昭和6年)に日活映画の封切館として開館し、近代ルネッサンス様式の地下2階、地上7階の鉄骨鉄筋コンクリート建築物である。1階から4階が映画館で、5階はダンスホールだった。地下には大レストラン、2階・3階に喫茶室「森永キャンデーストア」と、聞くだけでも随分と楽しくなってくる施設である。5階のダンスホールは東京3大ダンスホールとして有名であったようだが、戦時体制の下、1940年(昭和15年)にはダンス禁止令施行で営業停止を余儀なくされる。秦が『帝都座』を手に入れた年である。その後、5階のダンスホールは、新しく吉本興業の演芸場としてオープンすることになり、戦後の「五階劇場」へとつながる。

大戦末期の空襲により新宿の街も焼け野原となるが、『帝都座』は数少ない戦禍を免れた建物の1つである。この戦後復興時期こそが秦の本領がもっとも発揮された時期である。既に述べたように、秦は、第一次世界大戦で敗戦の決まった年にベルリンに赴任し、敗戦後のドイツの復興を目のあたりにしていた。戦後の混乱期に人々が何を娯楽に求めるのか、秦には自身があった。それは、「ダンス」「スポーツ」「エロス」である。「スポーツ」は既に後楽園スタヂアムをおさえている。東京宝塚劇場や、そこでの日劇ダンシングチームでレビューも提供できる体制にあった。ただ、より先進的なエロスを追求する必要があると考えていた。

秦は『帝都座 』五階を新たに「ダンス」と「エロス」の鑑賞を堪能できる娯楽施設にリオープンすることを計画する。当時の警視庁保安課取り締まり規則は次の通りである。

『ズローズは股下二寸未満のもの及び肉色のものはこれを禁ずること。背部は上体の二分の一より以下を露出せしめざる事。静物と称し全身に肉襦袢を着し、裸体の曲線美を表するものは、腰部をスカートその他これに類するものを以て覆わしむこと』。

この規制に抵触せず、エロスを堪能できる表現手段はないか?秦を中心に佐谷功、益田隆が知恵を絞って考え出したのが、『ミューヂック ショウ ヴヰナスの誕生』(作:佐谷功、構成・振付:益田博)だ。全18景からなるこのレビュー、全シナリオが『the 座』第22号に再録されている。唄あり、ダンスあり、コントありのレビューである。その第12景が記念すべきストリップの誕生シーンとなる。そのシナリオを見てみよう。

12景『ヴヰナスの誕生(肉体と悪魔)』

カーテン前にて女のブルース調の独唱あり。カーテン開くと中央の台の上に貝殻から生まれたヴヰナスがボッティチェリの絵のようなポーズで活人画風に立ってゐる。ホリゾントに悪魔の黒い手の影を写す。美しい肉体と悪魔の争いを現す様な振り。

この12景では金と黒からなる大きな額縁が用意され、カーテンがかかっている。カーテンが開くと、額の中に、下半身をヴェールで隠した女性が静止しているという訳だ。「動くと捕まる」、これが当時のコンセンサスであった。「裸体の曲線美」を鑑賞する芸術性を強調して、合法的にエロスを楽しむ手段として考え出されたのがこの『額縁ショー』(あるいは『活人画』『名画アルバム』 ともよばれた)。

GHQに提出された『ヴヰナスの誕生』の脚本には1946年(昭和21年)12月25日より公演、と書かれている(当時、出版物、映画、演劇、いずれも連合国軍総司令部(GHQ)の検閲をうかなければならなかった)。何かの理由で「ヴヰナスの誕生」による「帝都座五階劇場」のオープンは1947年(昭和22年)1月1日となったようだ。12景のヴヰナス役は日劇ダンシングチーム第一期生「中村笑子」である。当時29歳とある。脚本は佐谷功、振付は益田博。戦前に秦が東京宝塚劇場の開設に伴って集めたスタッフが、ここで活躍していることになる。額縁ショーのポーズは秦と佐谷が決めたと記録されている。

『ヴヰナスの誕生』は入場料20円で、一日3回公演された。人々に与えた衝撃は強烈だったようで、多くの観劇感想が種々の雑誌に残っている。いずれも第12景の『ヴヰナスの誕生』シーン、すなわち『額縁ショー』の感想だけである。したがって、あたかもこの『額縁ショー』だけで興業がおこなわれていたような印象を与えるが、あくまでも18景からなるレビューの1シーンである。しかも、カーテンが開かれ、中村の裸体が鑑賞できるのは、最初は数秒だったようである。

『ヴヰナスの誕生』はたちまち話題となり、帝都座は、劇場のある5階の階段から地上の新宿通まで、順番待ちの人の列が連日続いたらしい。1月15日でこの『ヴヰナスの誕生』が終了する。2月11日からは第2回公演『ラ・パンテオン』(20景)が始まっている。今度は、ルーベンスの「アンドロメダ」を模した「額縁ショー」が用意され、モデルは中村に代わり、当時19歳の甲斐美和が起用されている。実は、1月の中村笑子が、乳首を露出していたのがどうかよくわからない。残っている写真では腕で乳首を隠している。甲斐美和の場合は、明らかに乳首を露出した写真が残っている。ここらへんがネット上の「最初のストリップ」の情報が混乱する原因なのかも知れない。

『額縁ショー』でヌードを披露したモデルは、この中村笑子、甲斐美和に加え、片岡マリ、原京子の合計4名だけであったそうだ。9月まで数回の、『額縁ショー』を含むレビューが公演されたようだ。当局の様子をみながら、次第に大胆になっていったようで、1947年(昭和22年)9月の公演『東郷青児アルバム』では、額縁から片岡マリから飛び出して舞台で踊りを披露している。

帝都座 のこの『ヴヰナスの誕生』公演が1947年(昭和22年)1月である。7月には既に浅草ロック座がオープンしているが、実はこの浅草ロック座にも秦が関与している。オーナーの草野稲穂は秦の知人で「これからは裸の時代だ」と秦から教えられ浅草ロック座を始めたという。事実、秦は浅草ロック座の顧問にもなっている。ちなみに、「ストリップ」とい言葉が生まれるのは翌年の1948(昭和23年)である。ここから浅草はストリップ黄金期を迎えるわけだ。秦の『ヴヰナスの誕生』がなくても浅草ストリップが生まれていたであろうが、秦の一連の活動がストリップの成長を加速していたのは間違いないであろう。そういった意味で、新宿での『ヴヰナスの誕生』を日本ストリップの起源とするのには、私自身、異論はない。

帝都座 五回劇場の果たしたもう1つの大きな役割に『肉体の門 』の上演がある。紹介したように、帝都座五回劇場がレビュー劇場としてオープンしたが、同時に演劇の公演もおこなっていた。1947年(昭和22年)5月には、最初の演劇公演として劇団東童による『春の目ざめ』が公演されているが、これもエロチックな内容の演劇のようである。8月に入ると『肉体の門』が「空気座」により公演されている。SMファンにとっては無視できないイベントである。

肉体の門 』は1947年(昭和22年)3月、雑誌「群像」に発表された田村泰次郎の小説である。有楽町のパンパン(在日米軍将兵を相手にした街娼)の物語であるが、発表早々話題になったようだ。この小説の演劇化を後押ししたのも秦豊吉である。小説が出た5ヶ月後の8月に、劇団「空気座」により『肉体の門』の演劇が帝都座五階劇場で開催される。

劇団「空気座」は1946年(昭和21年)、小崎政房を座長として結成された劇団で、古い世代の読者なら、劇団員の田崎潤や左卜全の名前はご存じかも知れない。1947年(昭和22年)8月の帝都座五階劇場での『肉体の門』は、脚本:小沢不二夫、演出:小崎政房で上演された。パンパンといった戦後独特の問題を扱っていたことももちろんだが、もう1つこの『肉体の門』を有名にしたのが、劇中の「リンチシーン」である。主人公の娼婦ボルネオ・マヤが仲間のパンパンから制裁を受けるシーンだが、両手首手錠縛りで上腕を吊され、そのまま上半身を裸にされ乳房を露出し(舞台では背中を向けているので乳房は見えそうで見えないが、スチールでは乳首が映っている)、仲間から鞭(ベルトか?)でぶたれるシーンである。何人かのSMファンが、この空気座の『肉体の門』の思い出を語っているが、これは立派な「戦後SM劇の第一号」と言ってもよいのではないであろうか?ちなみに、深井俊彦がストリップで残酷ショーを始めるのが1965年(昭和40年)のことである。この「戦後SM劇の第一号」とも言える空気座『肉体の門』も秦の影響があったことは興味深い。1949年(昭和24年)空気座が解散するまで、この『肉体の門』は1000ステージ、50万人程の観客を動員したと言われている。映画の方も1948年(昭和23年)には、空気座のメンバーを中心に、マキノ雅弘監督で映画化され、その後も、鈴木清順、五社英雄などの監督で何回かリメイクされている。

さて、このように、「最初のストリップ」「戦後SM劇の第一号」に関与していた秦豊吉であるが、そもそも彼の「変態度」はどの程度だったのであろうか?丸木砂土のペンネームでの作品を見れば明らかなように、変態性欲に相当の興味があったはずだ。いわゆる戦前の「変態」文化にかなり深く関与していたと思われる。戦後の著作活動を見ても、『夫婦生活』『結婚生活』などの夫婦ものエロ雑誌にさかんに寄稿している。『結婚生活』には高橋鐵 も寄稿しているのが目にとまる。事実、秦は第一出版社(高橋鐵の出版社)の『別冊人間探求』にも寄稿しているので、高橋鐵とのつながりもあったのかもしれない。これらSM源泉に関わる人達と秦豊吉のつながりも、引き続き調べて行きたい。

(参考資料)
『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)
田中小実昌、吉村平吉、メリー松原、正邦乙彦、樋口四郎『われら線中ストリップ派』in 「カストリ復刻版」日本出版社, 1975年(昭和50年)
國﨑彩『1920年代(1920-1926)ベルリンにおける秦豊吉』(早稲田大学21世紀COEプログラム, 2008)

(写真は帝都座五階劇場での第2回公演『ラ・パンテオン』の額縁ショー。乳房露わなモデルは甲斐美和)

追記:
今回参考資料として使わせいただいた季刊『the 座』第22号は、井上ひさし氏の主催する「こまつ座」が発行する劇団の季刊誌です。井上ひさし氏は浅草フランス座で文芸部兼進行係の経歴があり、初期ストリップ文化については深い理解と愛情をもっておられます。この22号も井上作品「日本人のへそ」(浅草ストリップが舞台)のこまつ座公演に焦点が当てた号で、その中に、帝都座五階劇場の『ヴィーナスの誕生』の特集が組まれています。失礼な言い方かもしれませんが、劇団の季刊誌にも関わらず、その調査、データ収集には驚くべき深さがあり、歴史資料としての価値は極めて高いものと考えています。ここに敬意をもって感謝させていただきます。貴重な写真も豊富に掲載されていますのでご興味のある方は、是非バックナンバーを手に入れてください。損はないと思います。
22号の序文に井上ひさし氏が昭和30年代初期の浅草フランス座の作品構成について述べています。深井俊彦の記事でも述べたように、この頃のストリップは、レビューの延長線上にあり、現在われわれが知っているストリップとは全く異なったものです。ピンク映画実演ショーの起源を考える上でも、この初期のストリップの様子を知ることは重要だと思います。繰り返しになりますが、この井上氏が語る、初期ストリップ(浅草フランス座)の作品構成を確認ください。

『1回の興業は2部に分かれていた。第一部はギャグのたくさん入った一時間程度の芝居。出演者は6, 7人で作者が台本を書いていた。毎回新作で演出者もいた。15分の休憩をはさんで1時間半の第2部。24,25景からなり、踊り子の数は20人前後。ソロ、デュエット、カルテット、群舞があり、他にコントや歌。振り付け師は国際劇場のSKDからきていた。音楽はもちろん生で7人編成の専属楽団。専属歌手も二人いた。』


Posted: 2010-01-24 05:54:44

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