『進化するKINBAKU~その1~』 では、現在世界中で、われわれが想像している以上に日本の緊縛が注目、愛好されていることを紹介した。「ShibariCon」 「KinbaCon」 といった日本語を取り入れた緊縛フェスティバルがあるかと思えば、緊縛愛好家の変名も、Nawashi Murakawa , Tatu , KabukiJoe といった日本風のものが多い。

これらの海外緊縛愛好家グループには「緊縛=日本緊縛」といった認識があるのだが、ただその緊縛そのものを見てみると、日本ではあまり目にしない緊縛をしばしば目にする。日本の緊縛が独自に進化した結果か、あるいはもともとあるロープテクニックにKinbakuというレッテルが貼られたかである。

「もともとあるロープテクニック」と書いたが、いわゆる欧米の「ボンデージ(Bondage)」プレイは、必ずしも革製品を用いた拘束に限られているわけではない。かなり早い段階からロープを用いた「ボンデージ」プレイが存在する。さらに言えば、「ホグタイ(Hogtie)」と呼ばれる「ボンデージ」プレイは、基本的にはロープが用いられる。「ホグタイ」をまだご存じでない方は、ネット検索で調べていただきたい。非常に完成された様式美を持っており、日本でいうところの「猿轡をされた」「逆海老縛り」に極めて近い。「ホグタイ」は着衣がおこなうのが基本とされるが、これは後に述べるように、米国での50年代ボンデージ文化の名残である。「ホグタイ」の愛好家は日本にも相当数いるはずで、「ホグタイ」専門の国内DVDメーカー も存在している。

どうして「ホグタイ」といった伝統ある縛り技術をもっている米国の人々が、こんなに日本の緊縛に興味をもつのだろう?50年代米国ボンデージ文化の文化は、現在につながることはなかったのだろうか?そもそも誰がこの美しいボンデージ文化の様式美を完成させたのだろう?と調べていくうちに、思わずはまり込んでしまったのが、今回紹介するジョン・ウィリー(John Willie) である。またまた脇道にそれるが、今回は予定を変更して、このジョン・ウィリーを少し紹介してみたい。ご存じの方には、「いまさら何を」という大物かもしれないが、お耳にしたことが無い人には、新鮮な情報となることを期待している(前回の続きは、~その3~で紹介する)。


奇譚クラブ は1951年(昭和26年)、須磨利之 の参加で、変態路線に入っていく。これを遡ること5年、1946年(昭和21年)、米国において歴史的な変態雑誌『ビザール(Bizarre) 』が発刊されている。この仕掛け人がジョン・ウィリーである。

ジョン・ウィリー(John Willie) は、またの名をJohn Alexander Scott Coutts。イギリス人である。『ビザール』発刊前後からJohn Willieという筆名を使っていたようだが、「Willie」とは俗語で「チンポ」を意味するそうだ。日本語的には「チンポコ太郎」といったノリのペンネームなのかとも思ったが、調べてみるとミュージシャンや少年小説にも「Willie」という名前が使われている。猪木と戦ったウィリーも、綴りはWillieである。なので、「ミスター珍」程度のノリかも知れない。それはさておき、このジョン・ウィリー、知れば知るほど引き込まれる人物なのである。

上に述べたようにジョン・ウィリー は『ビザール 』の編集人・発行人である。『ビザール』はA5程の小さな雑誌で、変態趣味告白記事、ボンデージやフェチのイラストと写真から構成されている。写真も、イラストもほとんどがジョン・ウィリーの手による作品であり、そしてなにより重要なのはその作品のクオリティーが非常に高い。その第2号から始まった長編劇画は、後に『甘味なるグウェンドリンの降伏』として単行本化され、ボンデージ・コミックの聖書として崇め奉られている。

いろいろなマニアからの告白投稿作品も『ビザール 』の重要な構成要素である。そのいくつかはウィリー自身が「なりすまし」で書いていたとされる。情報源によっては、『ビザール』の販売は完全に郵送だけに限定され、一般人には手に入りにくかった、とされている。郵送申込先(すなわち、編集室所在地)もわざわざカナダのモントリオールとし、モントリオールからニューヨークに転送する、といった面倒なことをしていた。当局の目を恐れてのことである。

ここまで読まれてお気づきのように、この『ジョン・ウィリー 』と『ビザール 』の関係、わが国の、『須磨利之(美濃村晃) 』と『奇譚クラブ 』の関係に、とてもよく似ている。ウィリーも須磨も相当の絵の才能がある芸術家である。両人共に縛り手である。なによりも、両人共に「縛られた女性の美しさ」に非常な価値を置いている。ウィリーは自身のボンデージを「Consensual Bondage」と呼んでいた。「Consensual」は、「合意に基づく」「共感性の」と訳される。女性を痛めつけるためのボンデージではなく、女性の美しさを引き出すためのボンデージである。ウィリーの「ボンデージ」はいわゆるロープによる縛りのみにとどまることなく、革製コルセット、それによる蜂胴、極端なタイトスカート、編み上げ式長靴、ピンヒールなどの、いわゆるフェチ・アートの領域にまで広がっていったことからも、女性の美に対するこだわりを窺い知ることができる。


ジョン・ウィリー 』の経歴については謎の部分が多い。ネット上の情報は比較的まとまっているが、ネット情報化されていない書籍情報を含めると、その経歴はばらばらである。得られる情報をベースに、2つの極端な生き様を再構成してみよう。

【ストーリー1】
1897年(明治30年)、イングランド・リヴァプールで、街娼の私生児として生まれたジョン・ウィリーことGeremia H. Maisonは、苦学して美学校に通い、絵の才能を磨いていく。1920年、当時オーストラリアにいたウィリーは、真性M女ホリーと結婚し、ホリーに教育され、そのS性は開花していく。ホリーとのプライベートな緊縛プレイは、莫大な量の写真としてウィリー自身により記録されていた。ウィリーはこの写真を携え、第二次世界大戦終了に合わせて、ニューヨークに移る決心をする。ホリーはオーストラリアにとどまることになり、二人の関係はここで終焉する。

ニューヨークのグリニッジビレッジで、広告用挿絵画家として好調なスタートを切ったウィリーであるが、生来の酒好きから次第に生活は荒んでくる。酒代を稼ぐために、コレクションの緊縛写真を複写して通信販売で売る生活を始める。その頃、たまたま知り合ったノミ屋のウイリアム・ブレインと意気投合し、二人は好事家向けのマニア雑誌『ビザール』を発刊することになる。1946年(昭和21年)のことである。

ウィリーは人並み外れた絵の才能をもっていたが、商売に関しては全くの素人であった。手にした現金はすぐにアルコールへと代わっていく。また、ウィリーには放浪癖があり、誰にも何も告げず、突然何ヶ月も行方をくらますことがしばしばであった。そのおかげで『ビザール』の発行も不定期なものとなり、その人気とは裏腹に、経営状態は次第に厳しくなっていかざるをえなかった。さらに悪いことには、ウィリーの作品の商品的価値に目をつけたニューヨークの商人達が、騙すような形でウィリーから、その作品権を手に入れてしまい、それを取り戻す裁判などで、ウィリーは心身共に疲労困憊していた。

1957年(昭和32年)、ウィリーはとうとう『ビザール』の権利を彼の秘書に売り払い、ニューヨークから去る。ウィリーの抜けた『ビザール』は、2年後、その歴史的な役割を終える。

西海岸に移ったウィリーだが、その酒漬けの生活は変わることなく、1本の安酒を手に入れるために、彼の貴重な作品を、その正当な評価からは遙かに安い金額で売って歩く生活を続けていた。

1962年(昭和37年)、脳腫瘍が悪化し、英国領チャネル諸島で死去する。既に数々の名作もお金も全て失った無一文の状態であった。不遇の中に生き、不遇の中に死んだ芸術家である。


【ストーリー2】
ジョン・ウィリーは、1902年(明治35年)12月9日、英国領のシンガポールで生を受ける。両親は英国の外国為替引受業者で金銭的に恵まれた家庭であった。その後、ウィリーは教育を受けるために英国本土に戻り、1921年(大正10年)には、名門陸軍士官学校「Sandhurst」に入学する。

ところが、1925年(大正14年)、ナイトクラブのホステスであったEveline Fisherと結婚し、この結婚が、軍の規律を乱すということで、士官学校を放校処分となってしまう。Evelineとはまもなく離婚する。両親は激怒し、仕送りを続けてやる代わりに、二度と英国本土に足を踏み入れるな、との条件でウィリーをオーストラリアに追放する。

1930年代、オーストラリアに移ったウィリーは、いろいろな職業を転々とする。フェティッシュ系のコスチューム店に出入りするうちに、フェチ系イラストや写真制作、またハイヒールの制作などを開始する。その頃知り合ったモデルがホリー・ファラム(Holly Faram)で、彼女の生来のM性に導かれ、ウィリーのS性が開花する。オーストラリアで、シー・スカウト(ボーイスカウトの海洋版であろう)に関わったことのあるウィリーは、船舶ロープワークの技術を身につけており、これをベースにHollyを縛り、それを写真に記録していた。

1940年(昭和15年)、大戦の激化と共に、ウィリーはオーストラリア軍に入隊。

1945年(昭和20年)、終戦と共に、既に結婚していたホリーを連れ、ニューヨークに移る。しばらくしてホリーとは離婚してしまうが、1946年(昭和21年)、歴史的な『ビザール』を発刊する。

ウィリーのイラストの制作過程は次のようなものである。まず、何よりボンデージに興味のあるモデルを捜すのに力を入れる。この目的のために、ウィリーは、いきつけのグリニッジビレッジのバーの入り口に備え付けられたラックに、彼の『ビザール』を入れておく。カウンターから、バーに入ってくる女性を観察し、その中で『ビザール』に興味を示した女性にアプローチし、口説き落としてモデルとした。

撮影は主にマンハッタンの2箇所のスタジオでおこなわれたようで、ヌード状態で縛られたモデルを写真に収める。

次に、この写真をベースに、ヌードの女性緊縛絵をまず描き、次にこれにコスチュームを描き込んでいく。このような過程を経て、名作『甘味なるグウェンドリンの降伏』などのボンデージ・コミックが生み出されている。

彼のイラストは写真複製され、1枚1ポンド、あるいは3ドルという高額にもかかわらず、朝鮮動乱などで現地動員された兵士の間で大ブームとなった。『ビザール』誌も順調に部数を伸ばし、1950年代のボンデージ・ブームの中心的存在となる。

50年代のボンデージ・ブームの立役者としては、アービング・クロウ(Irving Klaw, 1910-1966)の名がよく知られている。ユダヤ系アメリカ人としてニューヨークに生まれたクロウは、アーチストいうよりは優れた経営者だったのであろう。噂によると、ウィリーがアメリカに移ってきてまもない頃、ウィリーはイラストや写真を売って細々と生活していたのだが、その作品を買いあさり、転売してひと儲けしたのがクロウである。クロウは、ウィリーの作品の質の高さを見抜く力を持ち、時代が変態アートを欲していることを肌で感じ取っていた。その後、クロウは、ウィリーと直接の関係をもつようになり、ウィリーはクロウのお抱えのアーチストとして、彼のスタジオに出入りしていたようだ。

アービング・クロウはアーチストの間では評判が悪かったようで、「クロウはウィリーの『甘味なるグウェンドリンの降伏』の売上げを吸い取っている」と言われたりもしている。また、ウィリーに大きな影響を受けたボンデージ・アーチスト、エリック・スタントン(Eric Stanton)は、クロウに命ぜられ、「ウィリーの原画イラストの『鞭』の上に洋服を描き足す」といった屈辱的な作業をさせられたと述懐している。

アービング・クロウといえば、伝説的なピンアップガール、ベティー・ページ(Bettie Page)の育ての親としても有名である。ページとウィリーの出会いも興味深い点であるが、確かにニューヨーク時代に二人は遭遇しており、ウィリーはページのほぼ裸のホグタイ縛りの写真を多数撮影していたらしい。その莫大な量の写真は、北ハリウッドの富豪が所有していたらしいが、残念ながらある時点で破棄されている。

アービング・クロウは、当局の規制を逃れるために、徹底した「ノー・ヌード戦略」を採る。すなわち、商品として出されるボンデージ雑誌は、全てヌードを排し、「着衣」状態とした。これが米国で「着衣ホグタイ」が広まった背景である。人々は着衣状態で縛られた女性に、新鮮なエロティシズムを感じ、ボンデージ・アートの大ブレークが起こる。

当初は静観していた当局であるが、50年代の後半から、次第に問題視する人々が増えだし、ボンデージ・コミック雑誌に対する規制が次第に厳しくなる。上記の、「『鞭』の上に洋服を描き足す」作業も、当局の目を逃れるためのクロウの苦肉の策だったのであろう。ウィリーもクロウも、50年代の後半にかなりの貴重なボンデージフィルムを、安全のために破棄してしまったようである。日本でも50年代後半は変態雑誌に対する風当たりがきつくなっている。奇譚クラブも、いわゆる「白表紙時代」に入り、当局の目を意識しながら発行を続けざるをえなかった時代だ。また、朝鮮動乱も終わり、ウィリーの商売も下り坂になっていく。そもそもアーチストのウィリーには商売のセンスが欠落していたようだ。着の身着のままで旅に出、レストランでの食事代の代わりに、メニューの裏に自分の絵を書きながら放浪の旅を続けるのが好きな彼であった。

1957年(昭和32年)、20号の『ビザール』を編集したウィリーは、とうとうその権利を、アーチストのMahlon Blaineに譲渡し、ニューヨークを去り、ロサンジェルスに移り住む。『ビザール』は、その後1959年(昭和34年)の26号まで続くが、資金難の内にその終わりを迎える。

ロサンジェルスに移ったウィリーは、写真やイラストの通信販売で生計をたてていたようだ。写真好きの好事家に乞われて、彼の前でモデルを緊縛していたりもしていたようだ。縛り方のイラストハウツーイラストなども残っているので、晩年はかなり緊縛手法の開発に力をいれていた様子が窺われる。

不幸なことに、1961年(昭和36年)、ウィリーは脳腫瘍に煩う。自らの運命を悟ったウィリーは、全ての作品を破棄し、戻ることを許されなかった英国に戻る。ただし、英国本土ではなく、イギリス海峡のチャネル諸島に位置する、英国領のガーンジー島である。

1962年(昭和37年)、ガーンジー島にて60年の人生を閉じる。


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以上が、いろいろなウィリーのまつわる情報を、きままに集めて再構成してみた2つの彼の人生である。50年代以降の生活は、彼と実際生活を共にした人達の証言が含まれているので、比較的信頼できるものであろう。反して、ニューヨーク以前の生活は、どれが真実なのか誰も分からない。ここに書いていない異なる情報もたくさんある。SMというイマジネーションを必要とする世界に生きる人々は、得てして自分の人生をもイメージの世界で語る傾向があるので、考証を難しくさせる。

前回の記事では、「既に60年代にはかなりの緊縛写真が森下高茂 からファキア・ムサファー(Fakir Musafar) のルートで米国に流れていた」ことが『『日本緊縛写真史 1』に記述されていることを紹介した。ウィリーと日本との関係に興味をもち、その交流について少し調べてみた。

ウィリーの『ビザール』が日本のマニアに紹介されたのは、意外と早い。1950年代の前半には既に奇譚クラブに紹介されている。1964年(昭和39年)にあまとりあ社から発行された『ショッキング画集1』の中で、濡木痴夢男 森下高茂 が、それぞれ藤見郁とT. C. Moriscitaという筆名でこの経緯を詳しく書いている。

それによると、「ビザール第2号の破損本を、朝鮮動乱で韓国に滞在していた米軍のウイリアム・ヴァーベック氏が奇譚クラブ 編集室に送ってきた」「その挿絵の1,2枚を奇譚クラブに転載した。」とある。

手元にある、奇譚クラブのデータを捜して見ると、確かに1954年(昭和29年)1月号に、ウィリーのイラストが掲載されている。これ以前にもあるのかもしれないが、少なくとも1954年にまで遡ることが出来る。『最新欧米女』と題されたこのイラストは、ウィリーの名前は引用されておらず、「杉原虹児 構成」とされている。あるいは、杉原が正確に模写したものなのかもしれない。その後も、何度かウィリーの作品が奇譚クラブのイラストとして用いられており、ピンヒール、人間子馬など、それまでの奇譚クラブにはないテイストがウィリーのイラストによって奇譚クラブに持ち込まれた。

この「米軍のウイリアム・ヴァーベック氏」、あるいは当時のマニアとして有名だったのかもしれない。試しに、インターネット検索してみると、それらしき人物が引っかかってくるので面白い。それによると、「William Jordan Verbeck、1904年生まれ、は陸軍士官学校を卒業後、アメリカ陸軍第24師団歩兵第21連隊長として太平洋戦争に従軍、レイテ島・リモン峠で第一師団と戦った。」とある。これだけではどうってことはないのだが、彼の祖父がグイド・フルベッキと呼ばれる、19世紀中頃に来日した米国育ちの雇われ教師なのである。グイド・フルベッキの息子、Gustave Verbeekは日本で生まれ渡米して、新聞漫画の世界で名を成した人物のようである。こう考えると、美術を愛する環境に育ったウイリアム・ヴァーベックが、朝鮮半島での任務を終えた後に、祖父のいる日本にしばらく滞在していたとして、話はスムーズに通じるような気もする。

少々話はそれたが、このようにウィリーの作品は、奇譚クラブ のかなり早い段階から、海外での変態プレイとして紹介されていた。『ショッキング画像1』でウィリーを紹介している、森下高茂は、谷貫太などのいくつかの変名を使い、1953年(昭和28年)以降、奇譚クラブ 裏窓 風俗奇譚 に精力的に執筆活動をおこなっており、海外フェティッシュ・アートの紹介にも力を入れていた人物である。ウィリーの代表作、『甘味なるグウェンドリンの降伏』についても、濡木と共に「唯一無二の傑作であり、此の種のものとしては、将来に渉っても名作の位置を失わないであろう」と最高級の賛辞を送っている。なお、『甘味なるグウェンドリンの降伏』は1961年(昭和36年)から、『グエンドリンの降伏と冒険』等と題し、画報風俗奇譚や裏窓などで一部翻訳紹介されている。

既に述べたように、森下高茂は、米国のフェチズムの教祖的存在ムサファーとの太いパイプをもっていた。1960年代には、森下からムサファーを通し、日本の作品がかなりの量、米国に持ち込まれていたのは事実である。ウィリーとムサファーとの接点が興味のあるところだ。ウィリーの見事な緊縛美に日本の緊縛の影響があったのかどうかを知りたい。

ジョン・ウィリー とファキア・ムサファーに交流があったのは紛れもない事実である。ムサファーが証言している。いつから交流があったのであろうか?ウィリーの『ビザール』にムサファーが登場するのは21号以降である。既に述べたように、ウィリーは20号でビザールの編集を降りているので、ちょうど入れ違いになっている。ニューヨーク時代に既に両者の交流があったかどうか不明であるが、ムサファーが西海岸を拠点としてずっと活動していることを考えると、ウィリーがロサンジェルスに移ったあとに、頻繁な情報交換があったことは間違いない。

果たして、ムサファーは、森下を通じて手に入れた日本の緊縛写真やイラストをウィリーに見せたのであろうか?直接的な証拠はないものの、この可能性を強く示す解析が、前回も紹介した日本の緊縛を研究しているMaster “K” から報告されている。彼の著書、『The Beauty of Kinbaku』によると、ウィリーの緊縛パターンを注意深く調べて行くと、1957年(昭和32年)-1961年(昭和36年)のいわゆる西海岸に移ってからの時代の緊縛には、明らかに1953年(昭和28年)-1956年(昭和31年)の奇譚クラブや裏窓に掲載された緊縛の模写があると結論されている。それを支持するデータとして、1953年の須磨利之 の「芋虫縛り」という複雑な縛りにそっくりなウィリー自身の西海岸時代の写真を示している。ウィリーは日本の緊縛に強い興味を持っていた断定しても間違いはないであろう。

「ウィリーが完成させたボンデージの様式美は、やはり日本の緊縛をベースにしていたのだ」と誤解しないでいただきたい。ウィリーは日本の緊縛に興味をもっていたであろうが、影響を受けたのかどうかは分からない。おそらく日本の緊縛を知らなくても、同じように美しい緊縛作品を作り続けたであろう。むしろ重要なのは、ほぼ同時期に、地球の離れたところで似たような変態文化が生まれ育っていた事実。そして、意外と早い時期から両者の交流が存在し、お互いにかなりの刺激を与えながら進化してきたことである。文化のあるところに変態あり。人類皆一つである。

(参考文献)
*藤見郁・T. C. Moriscita『謎の人物、ジョン・ウィリーについて』(「ショッキング画集1」あまとりあ社、1964) 
*『Sale 2, No. 32 - ジョン・ウィリー・ボンデージ 』(フィクション・インク, 1987)
*北原童夢『ボンデージ進化論』(青弓社, 1992)
*Eric Kroll『The Complete Reprint of John Willie's Bizarre』(Taschen, 2005)
*Master K ”The Beauty of Kinbaku" (King Cat Ink, 2008)

(謝辞)
貴重な情報を与えてくださったMater “K”に感謝します。


Posted: 2010-03-28 11:00:47

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