$Ardent Obsession II
「今さら谷ナオミ なんて・・何でも知ってるワイ」、と思われるかもしれないが、日活デビュー以降の谷ナオミ についてはいろいろな情報が得られるものの、ピンク映画 時代の谷ナオミ のことについては、それほど情報は豊富でない。ピンク映画 時代の谷ナオミ を中心に紹介してみよう。

1948年(昭和23年)10月、福岡市博多区に生まれた谷ナオミ は、両親の不仲のために親戚の家を転々とする生活を送った。10代後半には熊本に移り、ホステスとしてクラブで働く。このクラブの専属歌手であった男性としばらく同棲生活を送ることになる。

18歳になってまもなくの1966年(昭和41年)12月、谷ナオミ は生まれ育った九州を後にして、単身上京する。新しい人生の開拓を夢見ての上京だと思われる。谷が上京した1966年(昭和41年)という日付を裏付ける強固な証拠は見いだせなかったが、ひとまずここは谷自身の証言を信じて1966年に上京してきたこととしておく。

1966年(昭和41年)はどのような時代だったのだろう?団鬼六 は勤めていたアフレコ会社の上司であった山邊信夫 に誘われ1965年にヤマベプロ 版『花と蛇』の製作を終えている。東京から神奈川県真鶴に再度転居し、ピンク映画 の脚本書きに腰を据えている(団は新橋でのバー経営に失敗し、1962年に一度、神奈川県三崎市に都落ちし英語教師をしばらくしていたが、1965年頃再度上京して山邊信夫 のいたアテレコ会社に勤め出している)。小説の方の『花と蛇』 は続編が奇譚クラブ に掲載中で確実にファンを増やしていたが、団氏の方はややマンネリ状態になりつつある。『裏窓』 は既に須磨利之 から濡木痴夢男 に編集長がバトンタッチされており、長田英吉 オサダゼミナール をスタートさせたところである。もちろん、世の中一般には「SM」という言葉はまだひろまっていない。

1966年(昭和41年)12月に上京した谷のその後の足取りで確実なのが、1967年(昭和42年)4月の関孝二 監督作品『スペシャル』(国映)でのピンク映画 デビューである。上京後数ヶ月で女優デビューしたことになる。その間、「ウエイトレスやキャバレー勤めをしながら豊原路子 に弟子入りし、体位のモデルなどをやる」とされている。この「豊原路子 」なる人物、これがなかなか興味深い人物である。

豊原路子 は、ソープ嬢出身のライターで、セックスコンサルタントの肩書きも持つ。1959年に出版された豊原の著作『マンハント』が売れたようで、その後も『体当たりマンハント旅行記』や『世界の男グルメ・裏のウラ』など、積極的に性を楽しむ現代的な女性として注目されていたようである。

以前紹介した須磨利之 たこ八郎 と交遊の深かった劇作家の深井俊彦 は、田中小実昌 らと1966年(昭和41年)に映画『体当りマンハント旅行』を作っている。この原作が豊原路子 である。豊原自身もこの映画に出演している。

したがって、谷ナオミ がデビューした1966年(昭和41年)に、谷の師匠である豊原路子 が映画関係者とコネクションを持っていたと考えるのは妥当だ。事実、「豊原路子 が双葉社『ニュース特報』の編集部員であった長尾を谷ナオミ に紹介し、長尾が谷ナオミ を国映に紹介」といった記述があり、つじつまが合う。

谷ナオミ のデビュー作『スペシャル』の「スペシャル」。「特別」に可愛いという意味ぐらいかな、と思っていたが、どうもソープでのテクニック「おスペ」を意識したものらしい。谷ナオミ が元ソープ嬢豊原路子 の弟子であることを宣伝に使おうとしていた模様だ。

この『スペシャル』の監督の関孝二 についても以前紹介した。1962年(昭和37年)の『情欲の谷間』で女ターザンを作りだし、ピンク映画 ブームに火をつけた監督だ。立体映画や透視映画など奇抜な企画が多く、『スペシャル』撮影時は55歳。その後73歳まで映画をとり続けた元気一杯の監督である。

ピンク映画 の記録は完全なものが残っていない。谷ナオミ の作品に関しても初期の作品に関しては完全なリストが存在しない。国内外のインターネットのリストや雑誌などの記録を集め、今のところ最善を尽くしたリストを作ってみたが、それによると谷ナオミ は、1967年(昭和42年)4月の『スペシャル』の後、同年だけで22本のピンク映画 に出演している。監督は小森白 小川欽也 、高木丈夫(本木荘二郎)、渡辺護 山本晋也 などである。作品によっては(例えば海外でもDVDとなっている渡辺護 監督『奴隷未亡人』)では、谷那保美という名前が使われている。その後も、谷尚美、谷直美、谷奈緒美、谷田恵子などの名前がしばしば使われている。同じように当時の人気女優「辰巳典子 」も、辰己のり子、辰己典子、辰巳のり子、辰巳典子、達見典子などの名前を使い分けている。作品数に対して女優数が不足していた当時を反映し、いろいろな名前を使って目新しさを出していたのかも知れない。

さて、谷ナオミ 団鬼六 との出会いである。正確には、谷ナオミ 山邊信夫 の出会いの方が歴史的には重要な意味をもつ。

谷ナオミ 山邊信夫 の出会いがいつ、どのようなものであったのかは、谷の証言と山邊の証言が食い違う。この不一致は、1999年(平成11年)に西日本スポーツに連載された『女優谷ナオミ :伝説のSM女王』で慎重に分析されている。私自身も山邊氏から直接話を伺い、山邊氏側の証言を確認している。

山邊信夫 によると、山邊と谷との出会いは次のようになる。すなわち、週刊大衆の取材で利用した新宿のクラブで、ホステスをしていた谷ナオミ を見つけて、ヤマベプロ に入れたとある。ヤマベプロの前にいくつかのピンク映画に出ていたことは、その後知ったということだ。

一方で、谷ナオミ の記憶では、俳優の種村正が主宰するMGAプロの所属女優として活動していたが、ギャラの不払い問題などを山邊に相談し、ヤマベプロ に移った、ということになる。山邊信夫 の記憶では、ずっと後になって谷ナオミ を一時、MGAプロに預けたこともあった、ということだ。

団氏の自伝には(創作部分が多いのではあるが)、山邊氏は谷ナオミ を気にいり、自分の映画に出演させたがっていたが、他のプロダクションの所属だったために、すぐには実現できなかった、と書いてある。そうすると、谷が上京して早い段階、まだデビューまもなくで、ホステス勤めもしている段階で谷を見初め、誘ってはいたものの、MGAプロに所属して活動し始めたために、実際にヤマベプロ の所属となるには、しばらく時間がかかった、といとこらへんが落としどころなのかもしれない。

1968年(昭和43年)に入り、いよいよ谷ナオミ ヤマベプロ の作品に出始める。ヤマベプロ作品の公開月が全て分かっているわけではないので、どれが谷ナオミ ヤマベプロ 初作品なのかよくわからないが、公開月が分かっている作品からいけば、3月公開の『色道仁義』がそれにあたる。脚本は団鬼六 、監督は三樹英樹。辰巳典子、祝真理、野上正義 山本昌平 、他多数が出ている大がかりな作品だ。

1967年にデビューした谷ナオミ は、翌年の1968年には、少なくとも17本の作品に出演している。その中で9本がヤマベプロの作品で、他はヤマベプロ以外のプロダクションの映画である。いくつか重要なものをピックアップしてみよう。

4月には小森白 監督作品『極秘 女拷問』(東京興映)に出演している。小森白監督は、既に「映画における緊縛指導 ~その1~ 名和弓雄」 で紹介したが、1964年の『日本拷問刑罰史』(新東宝)で大ヒットを飛ばし、当時、拷問系映画の代名詞のような監督だったと思われる。事実、この『極秘 女拷問』の中でも逆さ吊りで水桶の中に突っ込まれるシーンがあったのだが、風邪による高熱にも関わらずこのハードなシーンをこなした谷ナオミ の役者根性が、助監督であった山本晋也により伝説化されている。

5月には石井輝男 監督の『徳川女系図』に出演している。石井輝男 監督については辻村隆編で詳しく紹介したが、東映の名監督である。現在、ダーティ工藤 監督作によるドキュメント映画『石井輝男映画魂』が上映中で、いろんなところでSMにつながってくる監督である。辻村隆 の『徳川女刑罰史』は1969年の作品なので、この『徳川女系図』はその1年前の作品になる。

「え?谷ナオミ って、日活の前には東映の女優やっていたの?」と思われるかもしれない。1974年に日活デビューとされているのだが、実際は、ピンク映画女優時代にも、この『徳川女系図』を始めとして『女浮世風呂』(日活、1968)、『しなやかな獣たち』(日活、1972)といった五社作品に出演している。

東映の『徳川女系図』には、谷ナオミ のほかにも辰巳典子、祝真理、内田高子などのピンク女優が多数出演している。ピンク映画の人気を目のあたりにして、エロエロ路線に舵を切った東映であるが、東映所属の女優はなかなか裸になるには抵抗があるので、ピンク映画女優をごっそりと囲い込んだという訳である。

ただでさえ女優の足りないピンク映画業界、五社が金にまかして女優をごっそりと奪っていくことに危機感を募らせたはずだ。団鬼六 奇譚クラブ に連載していた「鬼六談義」の1968年(昭和43年)5月号には、「ピンク俳優の権利を守る『独立映画俳優協会』が発足」したと書いてある。五社によるピンク女優の引き抜きを阻止しようというわけだ。発足式には谷ナオミ も来ていたようだ。この『独立映画俳優協会』の理事長は火石利男。初期ピンク映画の貴重な女優供給源であった火石プロのオーナーである。

話はそれたが、『徳川女系図』における谷ナオミ の役柄はその他モロモロの裸ね-ちゃんである。注意して観てないとどこに出てきたのか分からない。『女浮世風呂』(日活、1968)も同じように、大手によるピンク映画界からの女優かり出しだと思われる。一方で、少し後の1972年の『しなやかな獣たち』(日活)は、谷によると友情出演ということらしい。例外的な3本である。基本的に、谷ナオミ は1967年から1974年まではピンク映画界の女優なのである(1974年の日活デビュー後もいくつかピンク映画にも出ている)。

上述のヤマベプロ作品『色道仁義』では谷ナオミ はまだ主役級の扱いではない。どれがヤマベプロ での谷の初の主演作品なのか、リストが不完全なのでよくわからないのだが、ヤマベプロ 1968年(昭和43年)5月公開の『女の色欲』では主役をとっているようだ。この作品の脚本が団鬼六 の手によるものか否かが不明である。団鬼六 の脚本とはっきりしている谷の作品は、ヤマベプロ 6月公開の『花と蛇より 肉の飼育』である。題名からも明らかだ。

『花と蛇より 肉の飼育』の上州川原湯温泉でのロケの様子が、奇譚クラブ 1968年(昭和43年)8月号の『鬼六談義 残酷な話』に面白可笑しく書かれてある。日活時代は、「SM=団鬼六 」ということで、やたらと「団鬼六 ○×ナントカ」というタイトルが多かったが、この時代は「奇譚クラブ 」や「花と蛇」がSMの記号として使われていたようだ。団氏は、マニアに神聖視されている「花と蛇」という題名をピンク映画に使うのに気が引けるのか、しきりと「サブタイトルは配給会社の部長がつけた」「花と蛇シリーズは私の仕事しているプロダクションがつけた」「この奇妙な題名は会社の社長がつけた」「KK誌連載のものとは何の関係もない」と弁解している。山邊氏はSMには興味はないそうだが、団氏の脚本家としての才能と、緊縛ものは集客力が高いことに気づいていた。

一部のネット情報では、「谷ナオミ はSMの巨匠である団鬼六 氏が見つけ出し、やがて日活のスターに育て上げた」といった内容のことが書いてある。間違いではないが、この時代、団鬼六 の名前は奇譚クラブ の読者ぐらいしか知る人はいない。当時はまだ巨匠ではなく、山邊信夫 のお抱え脚本家に過ぎない。奇譚クラブ の原稿料は驚くべき安さだったそうなので、団氏の生活は完全にヤマベプロからの原稿料に依存していたはずである。また、谷ナオミ は、1968年(昭和43年)から1970年代の中頃まで、山邊信夫 氏をマネージャーとして一心同体で活動している。団は山邊を通じて谷を知った筈だ。団鬼六 谷ナオミ による「SMへの市民権の付与」には、仕掛け人としての山邊信夫 氏が大きく関わっていることを留意したい。

長くなったので、続きは谷ナオミ (2)に回す。(1)をまとめると、18歳で上京した谷ナオミ は、上京後数ヶ月後には豊原路子の紹介でピンク映画に出演し、その年だけで22本も出演するといった売れっ子になった。やがてその後を谷の人生を大きく変える山邊信夫 氏と出会い、1968年(昭和43年)から、団鬼六 が脚本を書くヤマベプロ の作品に出演し始める。山邊も団も「緊縛もの」のピンク映画がお金になることを確信し始める。


Posted: 2010-08-22 16:53:59

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