pic:shoji ueda 日常的な事象や光景が写っていて、それが何を訴えたいのかよくわからない。そんな曖昧な写真が作品として跋扈しているように思えてならない。其れらはあたかも、私写真という言葉を隠れ蓑にしているかのようにも見える。 しかし、植田正治の写した...


pic:shoji ueda


日常的な事象や光景が写っていて、それが何を訴えたいのかよくわからない。そんな曖昧な写真が作品として跋扈しているように思えてならない。其れらはあたかも、私写真という言葉を隠れ蓑にしているかのようにも見える。
しかし、植田正治の写した日常には、其処に居たわけでもないのに感じる郷愁もあれば、何処にでもあるような光景を切り取っただけなのに、何かこう、膝をポンと叩きたくなるような感じで理解できるユーモアがある。そして其の作品群は、実に気の利いたフレーミングで、写真としての完成度がある。
其の一方で、ベス単レンズを敢えて使い続けたり、印画紙を歪曲させてプリントする(まるで、偶然のアクシデントで採用された「リボルバー」のジャケット写真のようだ)というような、写真機を遊ぶ無邪気な作品があったりと、撮影者の態度としては奔放に見える。
ひとつの背景や技法に拘ることなく撮影された一連の作品が、植田調と謂われる、統一感を持った美意識を醸し出しているのは本当に不思議であり、何度見ても飽きない。
ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション (東京・日本橋)での「夢の向こうがわ 浜口陽三・植田正治二人展」を見た。浜口陽三の好んだモチーフと、卓上の静物を描写した晩年の植田作品とのコンビネーションが主題なのかなと想像していたが、美術館のコレクションは意に反して素晴らしく、砂丘風景から童暦、小さい伝記というシリーズからまんべんなく選ばれていた。

「企画展 - 浜口陽三・植田正治二人展−夢の向こうがわ」
2010年7月3日(土)から9月26日(日)迄(23日迄夏期休館)



何を撮るかというイメージを執拗に愚直に追及し、其の装飾が何故か古色蒼然としているロシアや東欧の写真家の作品が好きだ。資生堂ギャラリー (東京・銀座)で開催されていた「暗がりのあかり チェコ写真の現在展」を眺めて、其の思いは裏切られることはなかった。


pic:Tereza Vlčková

それぞれの作家には、すべて社会的テーマが設定されている。静謐なモノクローム作品は健在だが、インクジェットによる大判プリントで表現する、ディタ・ペペ(1973年、チェコ共和国オストラヴァ生まれ。現代社会における多様な女性たちをテーマに、自身がその対象に扮する「Self-portraits」シリーズを制作。さまざまな職業の老若男女と、其れらの人々に合わせてコーディネイトした作者自身が記念写真のような人工的ポーズと背景で写っている)、テレザ・ヴルチュコヴァー(1983年、チェコ共和国フセチーン生まれ。少女をモデルに、場所・時代が漠然とした、神話や寓話を思わせる神秘的なイメージの作品を制作する)の作品が斬新だった。テレザ・ヴルチュコヴァーのTwinsは其れこそなにかの模倣にも見えるが、生身の少女と其のコピーを合成したもの、対になる人形の少女を撮ったもの、そして本当の双子を撮影したものなどが混交して並んで配置されていて、其れが鑑賞者の予定調和的思考を掻き回す。
そしてミハル・マツクー(1963年、チェコ共和国ブルンタール生まれ。アイデンティティの喪失と破壊をテーマに、独自の技法による“Gellage”シリーズを制作する)の執拗なコラージュと、プリントされたガラス板によるオブジェ。
東欧の写真家の奥底に脈々と連なる、工業的美意識によるアヴァンギャルド精神は健在なのであった。

Posted: 2010-08-18 05:20:00

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